誕生ストーリー

タカラcanチューハイ

「タ力ラcanチューハイ」の開発に関係した多くの人は、
成功要因を「チューハイブームというトレンドをいち早くつかみ、容器を缶にしたこと」と振り返ります。
日本初の缶入りチューハイの発売は、宝酒造にとって大きな挑戦であり、冒険でもありました。

1980年代
チューハイブームの到来

首都圏を中心に、居酒屋チェーン店が増え始め、焼酎を果汁や炭酸などで割って飲む「チューハイ」という飲み方が若者たちの間で爆発的なブームに。

その背景には、世界的に無色透明のお酒に人気が集まる「白色革命(ホワイトレボリューション)」の流れがありました。日本でも、1977年に発売した宝焼酎「純」をきっかけに、無色透明の「甲類焼酎」が販売量を大きく伸ばし、焼酎の飲み方に大きな影響を与えました。

宝焼酎「純」 純ブランドサイト
1983年1月
「缶入りチューハイ商品化
プロジェクト」スタート

このようなトレンドをいち早くつかみ、社内では缶入りチューハイの商品化に向けた検討が始まりました。

しかし、当時宝酒造には缶の充てんラインはなく、新設するとなれば多額の設備投資が必要となることや、缶と瓶では工程管理の方法が大きく異なることなどの理由から、
決断には慎重を期しました。

ますます高まるチューハイ人気の動きを受け、1983年
1月、ついに「缶入りチューハイ商品化プロジェクト」は
スタートしたのです。

イメージ画像
めざす味を求めて

商品化にあたって何より大切なのは、言うまでもなくチューハイの「味」を決定することでした。参考になる味を求めて、東京では上野や新宿、大阪ならキタ、ミナミ。めぼしい店には足しげく通って、何度も味を確かめました。
こうして多種多様なチューハイを味わうなかで、当時の開発者たちがこぞって「この味なら」と思えるチューハイに出会いました。フレーバーはレモンのみを使ったシンプルな味でありながら、すっきりと飲みやすく、後味も抜群にいい。そして何より嬉しかったのは、ベース焼酎に宝焼酎「純」が使われていたことでした。

『やっぱり「純」はうまいんだ。ならば缶チューハイも
必ずいける。』

さらに研究を進め、試作を繰り返した末、ついに商品の
“原型”が完成しました。

めざす味を求めて
シンプルでありながら、
斬新なパッケージ

商品設計と並行して、マーケティング計画も着々と進行していました。まず決定したのは、商品のネーミング。

多種多様なアイデアの中から絞り込まれたのは「純ハイ」と「タカラ缶チューハイ」の2案でした。最終的にはストレートに商品を表した「タカラ缶チューハイ」に軍配が上がり、当時のメインターゲットであった若年層を意識して、「缶」を「can」とアルファベット表記にした商品名に決定しました。

パッケージデザインも、メタリックなシルバー地に黒、黄、ピンク、グリーンの各色で「can CHU-HI」と記されたタイポグラフィーは、シンプルながら斬新で、強烈なインパクトを与えました。誰もが「これだ!」と感じる仕上がりでした。

斬新なパッケージ
1983年10月
初めての缶ライン

いよいよ「タカラcanチューハイ」の試験製造が始まりました。松戸工場に新設された生産設備は、最新鋭缶ライン。

当時、1分間に400本余りという処理能力は、戸惑いを覚えるほど早く映りました。缶ラインのノウハウを持っていなかった現場では、充填量やガス圧の調整など、前例のない調整に苦労の連続でした。

こうした努力が実り、生産がようやく軌道に乗ったのは、1983年の暮れも押し迫った頃。発売日は1か月後に迫っていました。

製造ライン
1984年1月
「タカラcanチューハイ」誕生

そして迎えた1984年1月。24日の発売日に先立ち、11日に東京で新製品発表会が開催されました。

新製品を覆っていた白いカーテンが開かれ、「タカラcanチューハイ」が初めて人々の前にその姿を現しました。
発売当時のフレーバー展開は、〈レモン〉〈純ハイ〉
〈プラム〉〈グレープフルーツ〉の4種類。
発表日の翌日、支店から京都本社へ、電話は鳴り続けました。

「売れている!注文殺到!」一。

「タカラcanチューハイ」は、1年間以上にわたる苦闘を
大きな糧として、これ以上ないスタートを切りました。

タカラcanチューハイ誕生
2024年1月
そして、これからも

日本初の缶入りチューハイとして登場した「タカラcanチューハイ」は、40周年を迎えました。
ファンの皆さまのおかげで40年も続くロングセラー
ブランドとなり、感謝の気持ちでいっぱいです。

焼酎メーカーだからこそ実現することができた
「元祖辛口」の味わい。
これからも変わらない美味しさをお届けし、50年、100年長く愛される商品としてあり続けます。

タカラcanチューハイ40周年